前回の記事の続きです。
毎日の外出時に数枚の風景写真を撮る習慣に対して、ふとわいた「何のために写真を撮っているのだろうか」という疑問。
この疑問はその後に「このために撮っている!」という強い確信が得られたことで今では解消できていますが、解消に至るまでの過程を振り返ってみると、そこには「記憶の配当利回り」というものが関係していそうだ、と前回の記事で書きました。
「配当利回り」と言っても、実際に数値化できるわけではないのですが、利回りというくらいですから高められるなら高めたいところでしょう。
現実の株式投資における配当利回りは株価が上がれば下がり、下がれば上がるという逆比例の関係にあります。
写真撮影に限らず、あらゆる記録についても同じことが当てはまります。
記録にはそれなりの手間と時間がかかります。
つまり、人的および時間的資本を投じる必要があるのです。
その結果、そこから何らかのリターンが得られれば、「記録を続けていて良かったね」ということになります。
問題はリターンが得られないケース。
それが「続けていても意味がない」の意味するところです。
タスクシュートにおいて長く続けているリピートタスクがあれば、そのタスクの実行は習慣として定着していることになります。
長く続けているからこそ、取りかかりのハードルが下がり、やり方に習熟し、ミスなくソツなく実行できるようになります。
一方で、長く続けているがゆえに、そこに劇的な効用は感じられず、従って「いつもの感じ」がフィードバックされることになります。
マイルドな刺激が続くわけです。
「配当利回り」が下がっている状態です。
そうなったとき、この習慣をやめるかどうか。
やめるなら、どのような基準で見切りをつけるのか。
これについて考えてみます。