本当に重要なことは後にならないと分からない

以下の記事はとても「重要」なことを指摘しています。

まだお読みでない方は、まずこの記事を読んでみてください。

読まれましたでしょうか?

僕自身は「緊急ではないけど、重要なこと」に対する認識がアップデートされた、と感じています。

とりわけ「重要」という言葉に対する「畏れ」が軽減されました。

というより、「重要」に対して知らぬ間に過度に身構えていたことに気づかされた、という方が近いでしょう。

実はもっと気楽に向き合ってもいいものであるにも関わらず、気後れして、気疲れして、向き合う気力が損なわれてしまう。

とはいえ、この「重要」に対する「畏れ」を即座に消し去ることは難しく、時間をかけて少しずつ程よいレベルにまでダウングレードさせていくことになります。

「畏れ」は「不安」の裏返し

「畏れ」には「畏敬」という言葉もあるように、「敬う」というニュアンスが漂います。

失礼にならないように、心して向き合わなければ「不敬」の罪を着せられてしまう。

そんな「恐れ」が裏に控えている(と感じられる)わけです。

やるからには「ちゃんと」やらないとダメだ、という圧がそこにはあります。

それゆえに、自分にとって「重要」なことに向き合う際にはつい腰が引けてしまう。

「重要」であることは十分に分かっていても、それが分かっているがゆえに手が出せなくなってしまうのです。

あるいは、時間と手間をかけすぎてしまうこともあるでしょう。

何しろ「重要」なことですから、どれだけ時間や手間をかけてもかけ過ぎるということはありません。

むしろ、かければかけるほど安心感が増すので、いっそう拍車がかかることもありそうです。

このように「重要」なことは以下の両極端の行動を喚起します。

  • ついつい遠ざけてしまう
  • ついついやりすぎてしまう

いずれも望ましいことではないので、程よいレベルを見つけて落ち着きたいところです。

では、どうすればいいか?

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