記録の振り返りは「改善」のためではなく

残した記録を振り返るのは何のためでしょうか?

記録を振り返ってみることで問題点を発見し、これを改善していくためでしょう。

だとすると、振り返りのために記録に向き合うときはおのずと「採点モード」になりがちです。

「何か問題点があるはずだ」と。

めでたく問題点が見つかれば「すわ、これは改善しなければ!」ということでタスク化するなりリピートタスクを調整するなり行動を起こすことになります。

もちろん改善につながるわけですから、これはこれで良いことなのですが、もう少しゆるめてもいいのではないか、と最近は考えています。

問題点というネガティブな面ばかりでなく、何かポジティブな面にも目を向けてみるのです。

だからと言って「昨日の自分は何かポジティブな行動を起こしていただろうか?」という問いを持って向き合いましょう、というわけでもありません。

では、どうすればいいのかというと、何も考えずに記録を読み返すだけ。

「何かしら回収しなければ!」と意気込むことなく、淡々と向き合います。

できれば、自分以外の誰か記録だと思って読み返すくらいだとちょうど良いです。

そのようにして記録を振り返っていると、あたかも記録が語りかけてくるような感覚になります。

このあたりは『発想法』という本の以下の記述に通じます。

やがて紙きれ同士のあいだで、その内容の上でお互いに親近感を覚える紙きれ同士が目についてくるだろう。「この紙きれとあの紙きれの内容は同じだ」とか、「非常に近いな」と感ずるもの同士が目にとまる。そう気がつけば、その紙きれ同士をどちらかの一ヵ所に集めるのである。このようにして、まもなく紙片群があちこちにできる。いわば紙きれ同士の小チームができていくのである。

本書は著者(川喜田二郎氏)の名前から「KJ法」と名付けられた独自の発想法について書かれた本です。

上記引用部分はチームでの討論の過程で記録係が書き残した発言記録の紙切れをもとに新たな発想を生み出す過程を描いた一部です。

紙切れには1枚につき1つの内容が記され、トランプのカードのように広いテーブルの上に並べられています。

これらの紙切れを眺めつつ、各紙切れが発するメッセージを受け取りながら似た紙切れ同士を一箇所に集めていきます。

記録の振り返りも、この感覚で取り組みたいのです。

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