タスクシュートを続けることで得られる時間感覚

前回の記事の続きです。

『世界は時間でできている』を読み進めつつ、タスクシュートの認識をアップデートするシリーズです。

本書は全7章(序章を含めると8章)あるのですが、実はまだ序章です。

序章は「時間哲学入門」と題し、以下の5つの節から成ります。

  • 1.時間の多義性を整理するために
  • 2.持続とは何か
  • 3.時間の計画
  • 4.時間の体験
  • 5.時間クオリア

もう何度も行きつ戻りつしながら内容の理解に努めているのですが、なかなか次の第1章に進むことができていません。

未消化なまま進んでも、ますます分からなくなるだけで、そうであれば自分なりに「そういうことか」と腑に落ちるところまで到達したい。

一方で、未消化を気にせず、とにかく最後まで通読してしまった方がいいのかもしれません。

ここで、どちらを選ぶかを考えるとき、まさに時間の問題が立ち上がってきます。

無意識のうちに「どちらの読み方がより短い時間でより深く理解できるのだろうか?」という問いを立て、その答えを見つけ出そうとしていることに気づくのです。

「内容を理解したい」という想いの傍らに「読むために使える時間は限られている」という制約があるからです。

そして、改めて不思議というか面白いと感じるのが、読むためにどれだけの時間を投下するか、その分量について自分の中に知らぬ間に基準ができていること。

この基準を下回る間は「まだ読める」と感じますし、これを上回ると「こんなにかけてしまった」と焦る。

何をするときも漏れなく時間を計測しているがゆえに、体験とこれに費やした時間の長さを常にセットで認識しているからでしょう。

「こういう体験を得るために費やすのはこれくらいの時間が妥当」という“相場感”が身についているわけです。

金銭感覚ならぬ時間感覚です。

これはタスクシュートを続けることで得られる「素養」の1つでしょう。

ところで、ここまでに繰り返し使ってきた次の2つに改めて目を向けてみます。

  • ある行為に費やした時間
  • それによってもたらされた体験

タスクシュートはまず開始時刻と終了時刻を記録することで前者を、「タスク実行後のコメント」によって後者を、それぞれ計測、言語化しようとします。

これによって、何を目指しているのでしょうか?

実は『世界は時間でできている』の中にそのヒントが、というより「答え」に限りなく近いことが書かれていました。

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