「もう一人の自分」としてのタスクシュート

朝の自分と夜の自分は、同じ「自分」にもかかわらず同じではありません。

朝に立てたプランを夜に眺め直すとき、そこには「別の人物」が書き残した道筋のようなものが現れます。

  • 朝の自分は、「今日はこう過ごす」というプランを立てる
  • 夜の自分は、そのプランを眺めながら「こう過ごすつもりの自分がいたのだな」と気づく

実際の一日は計画通りには進まないものです。

目の前にあるのは、予定とは違う流れをたどった「いまの自分」。

そのとき、朝のプランに刻まれた「もう一人の自分」は、別の世界線を生きる存在のように見えてきます。

この比較ができるのは、タスクシュートが「影」として、もう一人の自分を演じてくれるからです。

プランは「こうあろうとした自分」の痕跡であり、実行ログは「こうあった自分」の証。

両者を並べることで、「自分」という存在の多面性に気づくことができます。

朝に立てたプランと、夜に残った実行のログ。

この二つを並べると、そこには必ず違いが生じています。

  • 「やるつもりだったけれど手をつけなかったこと」
  • 「予定外に割り込んできて多くの時間を取ったこと」
  • 「思ったより早く終わったこと、逆に長引いたこと」

このような違いは、単なる“誤差”ではありません。

それは「もう一人の自分」が生きた世界線と、いまここにいる自分が生きた世界線の差異です。

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