前回の記事の続きです。
引き続き『世界は時間でできている』を読み進めつつ、タスクシュートの認識をアップデートするシリーズです。
前回、本書の序章で手こずっていることについて以下のような迷いを書きました。
もう何度も行きつ戻りつしながら内容の理解に努めているのですが、なかなか次の第1章に進むことができていません。
未消化なまま進んでも、ますます分からなくなるだけで、そうであれば自分なりに「そういうことか」と腑に落ちるところまで到達したい。
一方で、未消化を気にせず、とにかく最後まで通読してしまった方がいいのかもしれません。
結論から言うと、「未消化を気にせず、とにかく最後まで通読」する方針で第1章に進むことにしました。
第1章はまだ読み始めたばかりですが、序章に比べると読みやすく感じます。
そう感じるのは以下のいずれか、あるいは両方が理由だと考えています。
- 序章をメモを取りながら繰り返し読んだから
- 第1章の内容は既知のものが多いから
序章を繰り返し読んでしまった(=読む前の状態に戻れない)現時点においてはもはや区別がつかなくなっています。
ここで興味深く感じるのは、上記に挙げた2つの理由に含まれる行為の体験について、今この瞬間にもかなり鮮明に思い出せることです。
- 序章をメモを取りながら繰り返し読んだ、という体験
- 「第1章の内容は既知のものが多いな」と感じながら読み進めた、という体験
いずれもこの体験を経た後に、改めて言語化したものです。
このあたり、前回の記事で引いた以下に通じます。
現実にこの場で生じていることだ。それは質として感じられる流れで埋められている。ただし極端に生もので、そのライブ会場から一歩たりとも持ち出せない。
つまり、以下2つの文は僕の体験を言語化したものですが、これらの文を僕以外の人が目にしたとき、僕が何をしたのかについての「見取り図」的なものは把握できるかもしれませんが、僕が体験の中で感じた「臨場感」は読み取れないでしょう。
- 序章をメモを取りながら繰り返し読んだ、という体験
- 「第1章の内容は既知のものが多いな」と感じながら読み進めた、という体験
もちろん、想像で補完することはできるかもしれませんが、それができるのは想像した当人が過去に似たような体験をしているときであり、そのような体験を持ち合わせていない場合は「さっぱり分からない」ということになるはずです。
そして、この「想像で補完できる」ことはタスク管理においては極めて重要。
なぜか?
今回はこのあたりについて考えてみます。