タスクシュートに残した記録を通して未来の自分に伝えたいこと

前回の記事の続きです。

引き続き『世界は時間でできている』を読み進めつつ、タスクシュートの認識をアップデートするシリーズです。

前回は読み始めたばかりの第1章で目に留まったくだりとして以下を引いたところで終わりました。

なぜ、私たちは流れを体験できてしまっているのだろうか。何かを内側から味わうなんていう不思議なことが、どうして肉の塊でしかない私の身体に可能なのだろうか。同じことがスーパーで売っているお肉にも起きているのだろうか。

文中における「流れ」は「体験の時間」を指していると書かれています。

何かについて「流れとして感じ取れる」とき、それを「体験できる」とみなすことができる。

現時点で僕はこのように解釈しています。

では「流れとして感じ取れる」のはどういうときか。

本書ではその「発生条件」として「特定のスケールに束縛されている」ときだと言います。

例えば、体験できないものの例として以下が挙げられています。

  • 蛍光灯が毎秒100回以上点滅していることに気づけない
  • 夜空を見上げたとき、天球が回転しているように感じられない

前者は速すぎる、後者は遅すぎるために点滅や回転を体験できないわけです。

知覚可能なスピード(=スケール)の動きしか体験できない、流れとして感じ取れない。

ここまで読み進めたところで、ふと思いついたあるキーワードでCosenseを検索してみたところ、数年前に日記を読み返していたときの記録にぶつかりました。

このときの「体験」がまさに「流れ」に当たるのではないかと感じます。

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