1行でもいいので記録に残しておく効用

ある夜、ベッドに入って目をつぶってから不意に「明日のTCジャーナルではこれについて書こう!」という素晴らしいアイデアが浮かびました。

こういうときはApple Watchの録音アプリの出番です。

ただ、すでに意識は朦朧とし始めていました。

次の二択で迷います。

  • 1.それでもとにかくこのアイデアを断片的であれApple Watchに吹き込む
  • 2.「こんな大事なアイデアを忘れるはずがないから記録するまでもないな」と判断して睡眠を優先する

しばらく逡巡したのち、睡魔に負けて2を選びました。

翌朝目覚めると、寝入りばなに素晴らしいアイデアが浮かんだことなどすっかり忘れています。

そして、PCに向かったところで不意に「そういえば、寝る直前に素晴らしいアイデアが浮かんだよな」という外殻は思い出しますが、肝心のアイデアの中身がさっぱり思い出せません。

「素晴らしいアイデア」という“パッケージ”には辿り着けても、“開封”ができないのです。

このように、今この瞬間に「簡単に思い出せる」ことを将来も同様にすぐに思い出せると錯覚することを「流暢性の錯覚」(りゅうちょうせいのさっかく)と呼ぶそうです。

似たようなことはタスクシュートにおいても頻発します。

例えば、タスク実行後にコメントを残そうとするときです。

  • こんな大事な感情を忘れるはずがない
  • 記録している時間が惜しい

ということで、結局その感情とは一期一会に終わってしまうのです。

もちろん、本当に大事な感情であれば、その後も形を変えて再び出会えることもあるでしょう。

でも、時間は限られている以上、あらゆる感情を記録にすくい上げることは難しい。

ここで必要になるのが、「ちゃんと」を手放すこと。

1行でもいいので、とにかく記録に残しておくようにします。

こうして残した記録のすべてが活かされるわけではありませんが、記録は後から活かすことだけが目的ではありません。

記録する行為そのものに意味があるのです。

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