時間は「十分にある」のか「足りない」のか・その2

前回の記事の続きです。

不意に思い出した、僕が子どもの頃に観ていた「噂の刑事トミーとマツ」というテレビドラマ。

このドラマに登場するトミーとマツという対照的な人格を誰しもが自身の中に同居させているのではないか、というところから

  • マツ:象使い
  • トミー:象

という役割分担に思い至ります。

マツはトミーが平時には発揮することのない「底力」を必要なときに解放する術を持っています。

直接コントロールできるのはマツであり、マツを介してしかトミーを操ることはできない。

前回の記事でも書きましたが、マツはトミーの「底力」を自分たちが窮地に陥るまで、つまりギリギリまで解放しません。

もったいぶっているかのようですが、使いどころを慎重に見極めており、ここぞというときまで温存しているという見方もできます。

テレビドラマはエンタメですから、定められた尺をめいっぱい使って視聴者を楽しませる必要があります。

それゆえ、マツ(厳密には脚本家や演出家)は、トミーの「底力」がもっとも映える瞬間を探ることになります。

では、どうすれば「もっとも映える瞬間」を見つけられるのか。

前回例に挙げた「論文を書き上げる」というタスクで言えば、「本気で取り組む」ための最適なタイミングはいつか、ということになります。

誰しも、期限まで余裕がある段階ではなかなか「本気で取り組む」気にならないものです。

一方で、期限に追われることも避けたい。

従って、「本気」を出す必然性があり、しかも期限には十分に間に合うようなベストなタイミングを希求することになります。

ただ、残念ながら、事前にこのベストなタイミングを正確に特定することは難しい。

「あのタイミングでは遅すぎた」とか「まだ早かった」と後からふり返ったときに初めて分かるものであり、事前には分からないのです。

これは、不意に急騰し始めた持ち株をいつ売却すると利益を最大化できるのかが事前には分からない様子に似ています。

つまり、目指すべきは「利益を最大化すること」ではなく「利益を確実に得ること」。

そのためにはどうすればいいか?

これについて考えてみます。

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