時間は「十分にある」のか「足りない」のか・その1

子どもの頃に観ていた「噂の刑事トミーとマツ」というテレビドラマを不意に思い出しました。

その名の通り、トミーとマツという二人の刑事が主人公の、いわゆるバディものです。

二人のキャラクターは以下のように対照的。

  • トミー(演:国広富之):正義感は強いが気弱な新米刑事
  • マツ(演:松崎しげる):情に厚いがガサツでせっかちな先輩刑事

物語の展開をリードするのは先輩のマツですが、容疑者確保の最終局面では新米トミーが活躍します。

気弱なはずのトミーがなぜ活躍できるのか。

それは、マツがここぞというところでトミーの女々しさを罵倒し、これにカッとなったトミーが豹変するからです。

この豹変シーンは水戸黄門の印籠のごとく定番化し、しかも回を重ねるごとにエスカレートしていきます。

観ている側としては、そうなると分かっていてもトミーの豹変っぷりには強く惹かれてしまいます。

この感覚は誰にとっても馴染みのあるものだからでしょう。

それは窮地に陥ったときに発揮される、平時には影を潜めている「底力」です。

そんな力を持っているなら最初から出せばいいのに、窮地に追い込まれるまで出し惜しみをしてしまう。

「マツはさっさとあの罵倒の言葉をトミーにぶつければいいのに」とやきもきしていたものです。

「あの罵倒の言葉」を耳にすることで、トミーは豹変するからです。

でも、残念ながら窮地に陥るまではマツは「あの罵倒の言葉」を口にしません。

その意味では、マツはトミーという象を自在に操る象使いのようです。

そして、誰しも、自分の中にトミーとマツという対照的な2人の人格を同居させていると感じています。

直接コントロールできるのは象使いのマツの方だけ。

では、どのようにすればマツに「あの罵倒の言葉」を口にさせることができるのか。

つまり、締め切りギリギリにまで追い込まれる前に、「底力」を少しでも引き出すにはどうすればいいか、ということです。

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