何にどれだけの時間を使ったのかの記録は重要ではない

以下の記事で、

記録の振り返りを行う際には、かかった時間より残したコメントを熟読しています。
定量情報より定性情報です。

と書きました。

以前は、何にどれだけの時間を使ったのかを分析し、可能な限りその使い方を最適化しようと考えていました。

が、今は時間の記録こそ残していますが(開始・終了時刻を記録すればおのずと記録が残る)、その使い方について細かく振り返ることはありません。

記録をもとに、プロジェクト別に、あるいはタグ別に使った時間をグラフ化するなどしてレビューする、といったこともやりません。

お金であれば、家計簿に使ったお金の記録を残し、何にどれだけのお金を使ったのかをグラフ化して比較することで、

  • 今月は衣服にお金を使いすぎた…
  • 残り4日を○○○円で過ごさないといけない…
  • 電気代が前年同月と比較して14%増えている…

といった発見が得られ、これをもとにお金の使い方を改めることができます。

時間についても、同じように記録から発見を引き出し、その使い方を改めることはできます。

でも、時間についてはそれほど神経質にならなくてもいいのではないか、と考えるようになったのです。

代わりに、その時間を過ごす中で感じたことや考えたことはつぶさに記録に残すようにしています(定性的な記録)。

自分にとって何か意味のある時間の使い方ができたときは、おそらく何かを感じたり考えたりしているはずです。

一方、特に何も感じることも、考えることもなく過ぎていく時間もあるでしょう。

この2つの時間の使い方は、定性的な記録の有無で区別できます。

どんな時間の使い方をすれば定性的な記録が残るのか、言い換えれば、自分の中から感情や思考を引き出せるのか。

より多くのことを感じたり考えたりできたなら、その時間は自分にとって「豊か」だったと言えるでしょう。

時間の使い方において、「豊かさ」を追求したいわけです。

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